〜九の月、ピンク・ローズ〜
心の中に花が開く。
何かの拍子に蕾をつけて、
想いと共鳴、咲き乱れる。
その花を君に差し出してみたい。
九の月のある夜、雨は激しく、風は強く大地を襲った。
嵐である。
「怖いな…」
「えっ?どうかしましたか?」
「この嵐…花たちを全て散らしてしまいそうだ…」
心配そうに外を覗うアーウィングを目を細めて見つめるセージュ。
「大丈夫ですよ。もし、散ってしまっても、それは大地に還える。
自然の理に、間違いはありませんよ?」
「うん…」
そこにお茶の用意を持ってシレネがやってきた。
「アーウィング様、セージュお兄様、お茶を仕度ができましたわ…」
瑠璃色の陶器のティーセットは、シレネのお気に入りだ。
「ありがとう、シレネ…」
「どうぞ…」
飲むと身体が温まった。
よく煮出してある紅茶は、アーウィングの好きなものだった。
「そうそう、ディルお兄様がケーキを焼いてくださったのよ。
それをお持ちするようにって言われてたの忘れてた!」
シレネが部屋からあわてて出て行こうとした時、扉が開いた。
「忘れてただろ?持ってきてやったぜ、シレネ」
「フェンネルお兄様!」
「その代わり、俺も食わせろよ!」
オレンジのケーキは、アーウィングの乳母・ハンナの得意なお菓子の一つだった。
この乳兄弟達は、それぞれ母親から料理だの裁縫だの、
家事に関する何かを習っているのだが、
"お菓子作り"は、どうやら次男のディルの担当らしい。
「じゃあ、みんなで食べようよ。ディルも呼んできてさ!」
「呼んできてよ、セージュ兄貴」
「ムッ…お前が行け、フェンネル」
「やだよ〜」
二人が喧嘩を始めたので、アーウィングは自分から動いた。
「僕が呼んでくるね?」
「王子!」
「サンキュ、助かるぜ!」
アーウィングが階段を降りようとした時、
閃光が走り、雷が凄まじい音で鳴った。
「うわぁぁぁっ!」
驚いて、足を踏み外し、落ちる…。
「…?」
「大丈夫ですか?」
「ディ…ディル…?」
落ちたと思ったが、アーウィングはディルに支えられていた。
「…雷、怖いのですか?」
「――ちょっとだけ…」
落ち着くと、とても恥ずかしくなった。
成人男子たる者、これくらいの事で驚いては…。
「今、君を呼びに行くところだったんだよ。ちょうど良かった」
アーウィングは、誤魔化すように引きつった笑顔をみせた。
「部屋に戻りましょうか…」
ディルは、アーウィングの手をそっと取ると、そのままスタスタと歩く。
「…あのさ、やめようよ?小さな子じゃないんだからさ…」
アーウィングは先を行くディルに言うが、聞き入れてもらえない。
普段は無口で無愛想なこの乳兄弟が、実は一番アーウィングに甘いのだ。
「…十分に、貴方は小さな子供ですよ。私にとっては…」
次の日、昨日の嵐が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
しかし、その分、大地にはその爪跡が残されていた。
「酷いな…せっかく育てた花が…」
どれもこれも風になぎ倒されてしまっていた。
哀しい気持ちにはなるが、これも自然のなせる業、
受け止めなければならない現実だ。
「手伝いますよ…されるのでしょう?庭の修復…」
「俺もヒマだし、手伝ってやるよ!」
「私も、お手伝いします」
「ありがとう…」
アーウィングとその乳兄弟達は、庭の草花の世話を始めた。
「力仕事は男連中にまかせて…私は食事に腕を振るいますか…」
シレネは腕まくりをしながら台所に向かう。
昼を過ぎて、庭の修復があらかた終わった頃、
シレネが食事を一階のテラスに運んできた。
テーブルは、あらかじめ造り付けであった。
大理石でできていて、直接、床にはめ込んで固定されている。
イスも同じくそこにあった。
「そろそろ休憩しません事〜?」
「わかった〜!」
全員、とても良い返事をしてテラスにやって来る。
「先に手を洗ってきてください!」
土いじりをしたままの手では食べて欲しくない。
もっともな意見である。
「洗ってきたよ〜」
「なら、席についてください」
食事はコンソメスープにサラダ、
それにローストビーフ、スモークサーモンなどのサンドウィッチ。
これらは、彼らの大好物だった。
「懐かしいね〜、こうやって皆で食べるのって…」
「そうですね、こうやって部屋の外で食事するのなんて十年ぶりくらいですか?」
「そんなに前じゃね〜よ!
レストナの離宮にいたのは、俺が八歳だから…」
「九年だよ。ほとんど十年じゃない?」
(あの頃は…よく皆で山や森に行って遊んだっけ…。
ハンナの作ってくれたお弁当を持って…)
「こうしていられるのも、ここが王宮の外だからなのよね…」
「何言ってんだよ?一緒だ、一緒。
どこに居たって俺達とアーウィングは兄弟だよ!
わざわざ隔てを置くお前らが変なんだよ!」
フェンネルの言葉に胸が熱くなる。
そう、アーウィングを王子としてではなく、
ただのアーウィング自身として接してくれるのは、彼だけだった。
「ありがとう、フェンネル…」
「別に…」
アーウィングは思った、自分は幸せだと、
そして、この幸せが続くように願った。
「この分だと、リディア姫の庭も大変でしょうね…」
何気なく、セージュが言った言葉にハッとする。
「そうだね…ここがあれだけ荒れているんだから、
向こうは酷い状態かもしれない…」
「今の時期なら、そろそろ薔薇が咲く頃でしたのに…」
「前に訪ねた時には、まだ咲いていなかったし、蕾も固かったから、
全部はやられてないはずだよ…」
思い出してみる。確かに、前に訪ねたときは咲いていなかった。
だけど、あの壁を成すように植えられた薔薇の木々が、
嵐によってダメになったら、それは、とてもとても寂しい事だ。
それに、嵐の被害は王宮の庭だけではないだろう…。
「僕、王宮に行って来るよ!
あの嵐だ、見舞いくらいしておくべきだろう…」
「御伴いたします…」
ディルが席を立った。
「ありがとう、ディル」
クレツェント王宮には、嵐の被害を訴える者や、
避難していた者、様々な者たちが居た。
城自体は流石に強固な造りのため、崩れているところは見当たらない。
だが、城壁はわずかに崩れている所があるようだった。
アーウィングは、国王への見舞いを済ませると、その足ですぐに庭に向かった。
予想通り、薔薇の木は折れ、曲がり、散らされていた。
「酷いですね…風も罪な事をする…」
「ねぇ、ディルは僕の考えている事がわか理解る?」
「この薔薇達を助けたいのでしょう?」
優しい微笑み、気持ちは伝わっている。
「そうなんだ!庭師の人達にも手伝ってもらわないと無理だけど…
やりたいんだ。だって、この庭は…姫の大切なものだと思うから…
それに、まだ咲こうと頑張ってる蕾を見つけたんだ。
健気にも咲こうとしてるんだよ?
それって、助けてあげたいじゃない?」
「では、庭師の方を呼びに行って参ります。
こちらの庭師は城住みではなかったと記憶しております」
「そうだよ、確か近くに住まいを持っていて、通っているはずだよ。
前に話をした時に、そう言っていた。それじゃあ、頼むよ…」
ディルは一礼するとその場を去った。
「さぁ、僕は薔薇を助けるとするか…」
窓から外を覗くと、いつもなら庭の花が心を癒してくれるのに、
今朝は違っていた。
昨夜の嵐が花達を散らし、庭は荒らされてしまっていた。
リディアは、それを見ていられないので、窓はカーテンで閉ざされていた。
「昨日の嵐のお見舞いにアーウィング殿がいらっしゃったそうですよ」
侍女ががリディアの髪を梳かしながら話しかける。
「そう…こちらに来られるのかしら?」
「さぁ…?私がお聞きしたのは、お昼を過ぎた頃でしたので…
こちらに来られるつもりなのでしたら、もう来ていても…」
「そうね…少し遅いかしら?それに、お見舞いなのでしょう?
私に会いに来られたという訳ではないのだから、今日は来ないのでしょう…」
あの、清々しい笑顔の少年に会えないのは、少し寂しい。
色んな話を一生懸命に語ってくれる。
特に、家族や花の話をする時の優しい表情は見ていて和む。
リディアは婚約者であるアーウィングに"弟"のような親しみを感じていた。
年下のせいか、"男の人"という認識ができない。
「会えないと寂しいなんて…」
前は思わなかった。
アーウィングは、素直に言葉を紡ぐ。
その言葉はどれも真摯で心に響く。
いつのまにか、その存在はリディアの中に少しではあるが、
確実に育ち始めていた――。
嵐のおかげで、城が何かと騒がしい。
騎士であるカイザーも例外でなく、せわしなく動いていた。
城内の人の出入りが激しいため、警護の任にあたる騎士も厳しくそれを行う。
「あれは…?」
ふと、見回りの最中にアーウィングの姿を見かけた。
「どうして、庭仕事なんて…?」
「どうかされましたか?」
「いや、ただ姫の婚約者の方が来ているようだ…挨拶をしてくる」
部下に見回りを続けるよう促し、カイザーはその光景を不思議に思いながら庭に出た。
「アーウィング王子、どうされたのですか?姫の所にいらっしゃったのなら…」
カイザーの声に振り返る。
「いや…まだ行ってないよ。
この庭が元に戻るまでは、姫の所には行けないよ…」
アーウィングは笑った。
「庭…これを直したのですか?」
「まだ、半分だけどね。庭が荒れていたら哀しいじゃない?」
その言葉に改めて庭を眺める。
確かに、以前の整えられていた庭の美しさを知っているだけに、
荒れた庭を見るのは心が痛む。
それでも、修復された部分には、ホッとさせられるものがあった。
「まさか、お一人で…?」
「そんな訳ないよ。庭師の方々に来てもらって、
あと僕とディル――乳兄弟の一人だね、その全員でやったんだよ」
よく見ると、他にも作業をしている人が見えた。
「大変だったでしょう?」
「そんなことないよ。
皆でやれば早く作業できるし、直れば嬉しいし…」
王族ではあるが、垣根を作らないアーウィングに、カイザーは戸惑う。
或いは、こういうところが王族として育った心の豊かさなのかと、妙に納得もした。
初めて出会った日の、リディアもこんなところがあった。
木の上に登って降りられなくなった仔猫を助けようとして窓から身を乗り出し、
偶然それを発見した自分の腕の中に落ちてきた
『秘密ね…』と囁いたあの少女の面影がよみがえる。
「よろしければ、お手伝いさせてくださいませんか?」
「ありがとう、人手は多い方が助かるよ…」
そう言うと、アーウィングはカイザーに薔薇の木の修復の仕方を教える。
完全には折れていない枝は、添え木をして、
折れたものは取り去ったり、植え替えたりするようにと、こまごまと説明する。
そうして、幾分か時間が過ぎ、庭はすっかり修復された。とは言うものの、
簡単な修復作業が終わったに過ぎない。
元に戻るには、まだまだ時間がかかるだろう…。
「とりあえず、終わったね?皆、ありがとう!」
「とんでもない…!王子様が手伝ってくださったおかげで、助かりました。
お礼を言うのはこちらの方です…」
庭師は深く礼をして帰っていった。
「あとは、時間と彼ら、庭師の仕事だね…
この庭が元の美しい姿に戻るには…」
「そうですね…でも、随分綺麗に直りましたよ?」
「うん…。ありがとう、ディル。ありがとう、カイザー」
アーウィングは、二人に礼をした。
「いえ…それよりも、姫には…?」
「今日は、ムリだよ。この服だもん…」
土いじりをしたせいで、すっかり泥まみれだった。
「あ、そうだ。これ…君にあげる」
アーウィングは、カイザーに薔薇を一輪差し出した。
「枝は折れてしまったけど、頑張って咲いたんだよ?
花ってすごいと思わない?」
無邪気な笑顔に洗われる。
心が晴れ晴れとする。
「そうですね…」
カイザーがそれを受け取ると満足そうにしていた。
「姫によろしく伝えておいてくれ、明後日には、お会いしに来ます…って!」
「では、失礼…」
「承知いたしました…」
アーウィングはディルと共に帰っていった。
カイザーはアーウィングにもらった薔薇を見た。
ピンクのその花は、小さく開いて、咲いてすぐの物だと分かった。
カイザーは、心の中に同じ花が咲いた事に気が付いた。
蝋燭の炎が点るような、ほのかな温かさを感じた。
(リディア様のお相手があの方で良かった…。)
優しさに触れた。純粋な心に触れた。心が癒された。
カイザーは、一旦、騎士団の詰め所に戻ってから、
リディアの部屋に向かった。
「失礼します…」
「カイザー…」
リディアの声に寂しい響きが残る。
「どうしたの?」
「はい、伝言を頼まれましたので…」
「違うわ…胸の、薔薇のことよ?」
リディアは、クスクスと笑う。
「いただいたんです。アーウィング王子に…」
「アーウィング様に会ったの?」
「はい。リディア様、よろしかったら庭を散歩されませんか?」
リディアの表情は暗くなった。
「嵐の跡は、見るのが辛いわ…」
「リディア様に見せたいものがあるのです」
カイザーの言葉に従う。
リディアはショールを羽織ると、カイザーの後について行く。
庭には出るが、それを見ることが出来ない。
「これを見て下さい!」
カイザーに言われるままに、仕方なく見る。
すると、目に飛び込んできたのは薔薇が倒れている光景ではなく、
一生懸命に咲こうとしている姿だった。
「嵐で荒らされたこの庭を、アーウィング王子が直されたのです。
きっと、貴方が悲しむ姿を見たくなかったんでしょうね…」
「これを…?」
来ないと思っていた、その理由がわかった。
「明後日には、姫に会いに来るとおっしゃってましたよ…」
「そう…」
リディアの瞳にうっすら涙が見える。
「綺麗…花は儚いものだと思っていたけど…違うのね。
こんなに一生懸命な…"生きる力"を持っているから美しいんだわ…」
彼は、それを知っているのだろう。
だからこそ、あんなに花を愛している…。
「その、胸の薔薇は…きっと、彼の気持ちなのよ。
カイザーも手伝ってくれたのでしょう?」
「どうして、それを…?」
驚くカイザーにリディアは微笑んだ。
「だって…今朝、挨拶に来た時と、服装が違うもの…」
「…確かに、そうですね。
でも、私は少し手伝わせてもらっただけですよ?」
「きっと、すごく嬉しかったんだわ…」
アーウィングの心が解る。
彼の言葉は花に託される。
そして、彼にとっての最上の贈り物は、その言葉を託した"花"なのだ。
リディアは、嬉しくなる。
ちょうど、アーウィングの気持ちと共鳴するように、
嬉しい気持ちが心に響く。
リディアはその薔薇を一輪だけ、愛しげに摘み取った。
「彼はきっと、貴方が手伝ってくれた事が、
花に優しくしてくれた事が嬉しかったのよ…。
だから、この花を貴方に贈りたかったんだわ」
「そうなのでしょうか?」
「絶対、そうよ!それにね…?
この薔薇の花言葉はね…"感銘"っていうの。
敬意とか、友愛を表しているのよ…」
アーウィングはカイザーに対して友情を感じたという事なのだろう。
「アーウィング王子が…私に友情を?」
「まるで、昔の私みたいね…?」
リディアの笑顔は澄んでいた。
今の二人の間に流れるのは、友情。
それを薔薇の花が守るように咲いている。
その色に、想いをのせて…。
部屋にもどったリディアはカイザーと話をした時の事を思い出していた。
以前なら、カイザーと居ると胸が締めつけられるように痛んだ。
それなのに、今日はホッとするような安らいだ心地さえした。
窓の外を眺める。嵐の跡だというのにすっかり澄みきった夜空が見えた。
まるで、それはリディアの心そのものだった。
「今は、まだ前に進めないけれど、前を向いているから…」
長い間どこにも進む事のできなかった想いは解放された。
だが、まだその場所から動き出す勇気がない。
もう少しだけ、時間が欲しかった。
(もっと、私に会いに来て。そして、私を…)
庭から摘んできた薔薇の花にそっと接吻けた。
その時、風が花を攫っていった。
舞い散る花びらを眺めながら、リディアは自分の運命を見ていた。
少年の純粋さに救いを求めている。
彼なら、自分を変えてくれるような気がした。
空には、三日月。
星は瞬き、夜を飾る。
この空は、どこまでも繋がっているから。
月に祈り、星に願えば、同じ夢が見られるという。
――願わくは、今宵、貴方と同じ夢を…。
この話のカイザーとリディアのやりとりが、かなり削った部分です。
でも、リディアの心はこっちの方が分かり易く、前向きになっているので、
僕は改訂版の方が好きです。
皆様はどうでしたか?